3月13日

頭の中でずっとうるさかった声が消えた。だから書くことがわからなくなってしまった。事実を残せばいいんだろう。

先週の8日は「ケンジトシ」を観に行った。宮沢賢治はもともと好きで、それを大好きな中村倫也が演じるというのでとても楽しみにしていた。宮沢賢治は難しい、ので舞台もやっぱり難しかった。好きなのだけど、どこをどういう理由で好きなのかはよくわからない。ほんとうのさいわい、とか、そういう言葉を聞くとすとんと腑に落ちる。だから好きだ。「自省録」の存在もはじめて知った。掲載されている本が図書館に所蔵されているので行きたいなと思う。

他人とはぐちゃぐちゃと変な感情のやりとりをしている。ケンジトシのパンフレットに「諦念」という言葉が載っていて、ああ、それだ、と感じる。なるほど私が求めていたのは諦念という概念であって、それはもう悟りの境地だというので大変なわけだ。多分私の好きなアイドルたちも、メンバーに対して諦念を持ちながら一緒にやってるんだろう。それを体得しようと最近は試行錯誤している。悲しいことを受け入れる、その流れができてきた。他人と分り合いたかった、と思う。本当のことを全て話したかった。私は誰にも本当のことを言えない。自分の身を守るためであったとしても、そのなんと悲しいことか。きっとみんなこうやって生きているんだろうけど、そうじゃないところに行きたかったのに、と思ったりもする。

花粉がひどくてそれに体力を持っていかれる。12日、昨日の日曜日は髪の毛を切りに行った。やっぱり短くしたいと事前に伝えていたので我慢できなかったか〜と言われ、自分で切りますか?と提案されてびっくりしてしまった。流行りというか、インスタとかで動画あるでしょーと言われてそういう遊びがあることを初めて知る。なかなか無いことなのでやってみたい。美容師の命みたいな仕事道具のハサミをおそるおそる受け取り、クリップでガイドをしてもらって刃を入れる。思ったよりも反発力がある。じゃきじゃきと切り進めて、手には10cmほどの長さの髪の毛の束が残った。これは何年前に生えた髪の毛だろう。捨ててしまえ捨ててしまえ。単純と言われても、髪の毛を切ることには重要な意味がある。まあ北海道のホテルの非力なドライヤーで連日ロングヘアを乾かすのを想像して嫌になったのが大きいけど。次に向かわないといけない。