5月9日

昨晩処方された薬を飲んで、副作用が不安だったけど少し胸焼けするかな?くらいで、寝たら治っていて安心した。引き継ぎのために出社して、周りの人がしょんぼりするのをなんでだ、と思ったりした。こうなったのは自分だけのせいだし。さよなら皆様!ほな!と冗談のつもりで言ったけどやっぱり人はしょんぼりしていた。

昼前に帰ってきて、朝ごはんを食べてなかったのでサンドイッチを作って食べた。郵便局に行って、ホームセンターにミニトマトの苗を見に行って、わからなさすぎて何も買わずに帰った。人と育てたいのに、とか考え出すと死にたくなる。疲れた。ベッドに横になるとシピちゃんが近くで眠るので、あったかくて柔らかくてこちらも眠くなる。昼寝をすると夜に何度も目が覚めるので避けたいけれど、耐え切れず3時間ほど眠って起きて、恐怖が襲ってくるのにまた耐える。私は誰にも必要とされていない。会社も休んで、これで本当にどこにも存在価値がなくなってしまった。何も持っていない。愛する人に必要とされない。認知が歪んでいる。歪んでいると言い聞かせてスマホを開く。スマホを触るのもやめたい。お風呂に入る。結婚して普通に生活して普通に出産したかった。それが無理だったんじゃん。結婚したからって本当に、私が求めるような真摯さで愛されるか?子供を産むことが幸せか?私の求めている愛や幸せは多分世間の普通の価値観からは大きくずれて狂っているらしい。だから普通におさまろうとすると、自分の欲求と世間への体裁が喧嘩をして苦しい。言い訳や甘えだと言うんだろう。わかってもらわなくていい。私がつらいのだけを解消したい。

お金をたくさん稼げる仕事を探そう、とか思った。今だって愛はある。愛されてはいる。誰の一番でもないにしても。生活が怖い。生活の恐怖はお金で解消できる。良い暮らしや良い生活もお金で買える。包丁を洗ってタオルで拭きながら、肌に押し付けようと想像して恐ろしくなってやめた。死にたいと思うこと、思考より先に涙が出ること、電車に飛び込んでしまいたいと思うこと、車が突っ込んできて轢かれたいと思うこと。自死を選ぶ人間はこのような恐怖と1人きりで戦っていたのかとはじめて知った。想像とは全く違った。自分が一番死にたくなんかないのだ。こんなこと想像すらしたくもないのだ。でも否応なしに襲ってくるその思考から、なんとか最速で逃げ切らなければいけないその焦り。病院の待合室で泣いたのは、助けてくれる専門家と機関までは自分は逃げ切れたのだという安心だった。気を紛らわすことをたくさんしたい。美術館に行くか、猫を愛でるか、眠るか。