1月29日

7時に起床。ベッドの中で30分ほどおはばばを見てから起きる。朝ご飯を食べてシピと少し遊んで、すぐ二度寝した。12時に起きて、お腹が減っていたのでカレーを作る。オモコロのYoutubeをひたすら見ている。14時頃に再度ベッドへ。眠くはないが起きていると余計なことを考えてしまいそうなのと、謎の焦燥感に襲われてしまうのが怖い。来週せっかく有給を取ったからどこか行きたいのに、行きたい場所が特にない。長時間家を空けるのはやっぱりシピが不安だし、あんまりお金も使いたくないし。お酒とおいしいおつまみを買っておくか朝に調達しに外に出て、昼からだらだらと飲むのがいいかもしれない。美術館や博物館にも行きたいけどどうしても観たい展示もないし、なんとなくしんどい。去年行った占いで、インプットはもういいからアウトプットをしなさい、と言われて安心した。美術品を観たり映画を観たりするのは非常に体力を消耗する。アウトプットもできていないけど。静かな場所の綺麗な風景を見たい。1人で行くのはなんとなく寂しい。友達や恋人がいれば…と考えてしまう。1人が寂しくなるとアプリを再開するか婚活でも、と思うけど、トラウマと面倒くささと、その意味のなさを知ってしまったから絶対やらない。当たり前に、一度失敗したのと同じ道を選んではいけない。つまり孤独と寛解する方向に努力するほうが己のためになると思う。1人で過ごすとして、どう過ごせば自分が穏やかで幸せでいられるのかを考えて、順番にゆっくり試してあげるほうが建設的だ。中途半端な他人といても孤独は深まるばかりだった。そうして多分、この孤独を本当に埋められる人間はこの世に存在しない。事実を少しずつでも受け入れて、極端に悲観的にならず、死ぬまでの安全な道筋を順番に考えていく。諦め。老いと時間は待ってくれない。ひとりっきりでこの人生から逃げ切らなければいけない。恐ろしさに、ふとした瞬間今も泣いてしまう。でもどうしてか前向きである。ここまでなんとか生き延びてきたから、自分だけは自分のことを最後まで諦めず大切にしてあげられる自信がある。その心強さがある。

シピが走り回る足音やおもちゃで遊ぶ音、何かを催促する鳴き声にどれくらい助けられているのかわからない。自分以外の生き物の物音が聞こえることのなんと幸せなことか。シピはどこかで眠っていても、私が和室に入ると一目散に駆け寄ってきて膝で眠り直す。猫を飼う前は責任が恐ろしかった。面倒だと思うだろうか、負担だと思うだろうか、鬱陶しくて嫌になるだろうか、万が一、一瞬でも飼ったことを後悔なんてしてしまったらどうしよう…全部杞憂だった。遊び相手になることや食事の世話、トイレの掃除、部屋やケージの掃除と、自分がこの子にやってあげられることがある、その事実にどれほど救われているか。そうしてそれがこの先20年近く続いていくことへの希望と幸せ。シピが私の前に現れてから明日が来ることが楽しみになった。シピとの暮らしのためにもっと美しい部屋に整えたいだとか、いつかはもっと良い家に住みたいだとか、そういう意欲も湧いてくる。

簿記の勉強。これを学ぶ意味をあまり深く考えないようにしている。知らなかったことを知れるのは単純におもしろい。今、何に対してもわりとそういう態度かもしれない。深く考えてもあまり良いことがない。目の前のことだけ、楽しいと思ったことだけを見るように。わからないけどダンスみたいだ。ドローイングみたいでもある。指先の神経の感覚や血液の流れや呼吸や天気や温度や匂いがちゃんと穏やかに美しく重なっているかどうかを最重要に生きている。踊れないけどくるくる回り続けている。